November 09, 2026

悠々として急げ

 作家の開高健さんの言葉として大変よく知られていますが、実は開高さん自身のオリジナルではなく、彼が好んで使い、世に広めたことで有名になった言葉とか。

元々は、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの言葉とされる「Festina lente(急ぎつつ慎重に、あるいは、ゆっくり急げ)」というラテン語の警句や、それを翻訳・翻案したものです。

​この言葉にどのような思いが込められていたのか、背景を整理してご紹介します。

​1. この言葉に込められた思い

​開高健は、大の釣り人(アングラー)であり、過酷なベトナム戦争の従軍体験などを経て、人間の業や自然の厳しさと向き合い続けた作家でした。彼がこの言葉に込めた(あるいは体現しようとした)心境は、主に次の点に集約されます。

  • ​矛盾する二つの要素の止揚(アウフヘーベン) 「悠々(ゆうゆう)」とは、心にゆとりを持ち、焦らず、泰然自若としていること。 「急げ(いそげ)」とは、目標に向かって機敏に、手際よく、全力で動くこと。 一見すると矛盾するこの二つを「矛盾のまま同時に成立させる」ことこそが、物事を成し遂げるための極意であるという思いがありました。
  • ​焦燥と情熱のバランス 人生や仕事において、ただのんびりしていては何も達成できませんが、かといって焦りすぎれば視野が狭くなり、足元をすくわれます。「内面では激しい情熱や危機感を燃やしつつ(急げ)、外面や態度はあくまで冷静に、ゆったりと構える(悠々)」という、プロフェッショナルとしての処世術であり美学でした。
  • ​「釣りの極意」に通じる境地 開高は釣りを人生の大きな師としていました。大物を狙うとき、焦って竿を激しく動かしても魚は釣れません。冷静に状況を観察し、機を捉えたら一瞬の隙もなく素早く動く――その「静と動」のバランスが、そのまま彼の人生哲学となっていました。

​2. 開高健とこの言葉の結びつき

​開高健さんは、神奈川県茅ヶ崎市にあった自邸(通称「開高記念館」)の庭に、自ら好んで「悠々として急げ」と刻んだ自然石の碑を置きました。

​彼にとってこの言葉は、単なる座右の銘というよりも、「せわしない世の中にあって、自分のペースを見失わず、しかし表現や仕事には全身全霊で挑む」ための、自分自身への戒めであり羅針盤だったと言えます。

No comments: